日記を開いて、こう思ったことはありませんか。今日は何もなかったのに。
特別によくも悪くもない日です。出勤して、ごはんを食べて、帰って、動画を見ながら寝た日。書くことがなくて、そのまま閉じます。
でも何日かたって振り返ると、そういう日がいちばん多いんですよね。結局ほとんどの日が記録から抜けてしまうことになります。
「何もなかった」は事実ではなく、判断です
先に確認しておきたいことがあります。何もなかったというのは事実ではなく、判断です。
私たちは無意識のうちに基準をひとつ持っています。書くに値することイコール出来事があったこと。 言い争ったとか、大きな決定があったとか、いい知らせがあったとか。その基準に引っかからないと、何もない日に分類されてしまいます。
でも日記は出来事の記録ではなく、状態の記録です。出来事がなくても状態はいつもあります。今日、体がどうだったか、心がどちら側に傾いていたかは、出来事とは関係なく存在しますから。
平穏な日が記録から消える理由
それともうひとつ。平穏な日は記憶にも残りにくいんです。
記憶は感情がついたものから保存します。ひどく腹が立った日、すごくうれしかった日は、何年たっても浮かんできます。一方、まあまあだった火曜日は、三日たてば消えてしまいます。
だから「今日は何もなかった」というのは、正確に言うと出来事がなかったのではなく、記憶につかまるほど感情が強くなかったという意味なんですよね。それは悪いことではありません。むしろ穏やかだったという意味ですから。
でも、記録が本当に必要なのはこういう日です
ここでひっくり返ることがあります。記録が本当に必要なのは、平穏な日のほうなんです。
つらい日は書かなくても記憶に残ります。むしろ残りすぎて困るくらいです。ところが平穏な日を書かずにいると、あとで記録を開いたときに悪い日だけが残っています。
そうなると、実際の暮らしがどうだったかとは関係なく、記録だけ見ればずっとつらかった人になってしまいます。
それともうひとつ大事な点があります。普段がどうだったかを知っていて初めて、悪くなったことに気づけます。 基準線がないと、今が普段より悪いのか、もともとこうなのか判断できません。
基準線の一文を残してください
だから平穏な日に、感情を絞り出そうとしないでください。かわりに基準線を書けばいいんです。
「今日は特別なことがなかった。まあまあだった。」
これで十分です。無理に意味をつけなくて大丈夫です。
ここに一行だけ足すといいですね。今、体が何点くらいか、心が何点くらいか。数字でも言葉でもかまいません。「体は普通、心は少し重め」くらいで十分です。
これがあとで比べる基準になります。二か月後のつらい日にこれを見れば、今が普段よりどれくらい下がっているのかが分かります。
それでも浮かばないなら、三つだけ
まあまあだった、すら書けないほど何も浮かばない日もあります。そんな時は出来事ではなく痕跡を聞いてみてください。
・今日は何を食べたか — ちゃんと食べたか、適当に済ませたか
・今日は誰と話したか — 誰とも話さなかった日か
・時間がいちばん早く過ぎた瞬間はいつか — 何をしているとき時間が消えたか
これは答えやすい質問です。記憶をさかのぼる必要がなく、そのまま答えればいいですから。そして三つを一か月ほど集めると、出来事よりずっと正確に自分の状態が見えます。ごはんを適当に済ませた日が増えているなら、それが合図ですから。
まとめると
- 「何もなかった」は事実ではなく判断。 出来事がなかっただけで、状態はある
- 平穏な日は感情が弱いので記憶にも残らない。書かないと本当に消える
- 記録が本当に必要なのは平穏な日。 書かないと記録に悪い日だけが残る
- 平穏な日は基準線の一文ひとつ。「今日はまあまあだった」+体と心の状態を一行
- それも難しければ何を食べたか・誰と話したか・時間がいつ早く過ぎたかの三つだけ
ただ、これで足りない時もあります
- 眠れない日が続く、または眠りすぎる
- 食べるのがつらい
- 洗う・掃除といった基本的なことができない
- 自分を傷つけたくなる
そんな状態なら、記録で解決しようとしないでください。その時は、専門家に会うのが正解です。記録は心を整理する道具で、治療ではありません。
私は心の専門家ではありません。ただ、話す場所がなかったことのある人間です。
🌲 私は「名もなき森」という匿名の記録の場所をつくっています。
コメントも評価もなく、ただ書きとめるだけの場所です。
「まあまあだった」の一行だけでもいい場所です。
https://nameless-forest.com/ja?utm_source=note&utm_campaign=nothing-happened-today
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